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2023.12.17

佐渡市・相川① 佐渡初上陸!! まるでラピュタ?北沢浮遊選鉱場跡

キャンバス
みなさん、こんにちは!チームキャンバスです。今回はチームいくらちゃん結成以来、初めての佐渡島取材です! なんとメンバーの中には船に乗るのが初めての人もいました。
第一弾は佐渡を代表する産業遺跡「北沢浮遊選鉱場」の歴史をお伝えします。今回は相川ふれあいガイドの本間満さんにお話をお伺いしました。

  • 1.相川のまちの歴史
  • 2.明治以降の佐渡鉱山
  • 3.北沢浮遊選鉱場の全盛期を支えた周辺の施設
  • 4.工作・工場群

 

<佐渡相川史跡散策マップを使った相川の説明>

 

 

1.相川のまちの歴史

 

まずは佐渡相川史跡散策マップという観光案内板を使って、北沢浮遊選鉱場周辺の相川のまちについて紹介してもらいました。

 

佐渡金山のシンボルの「道遊の割戸」(山頂部がV字に割れたような形)があります。大きな鉱脈が見つかったことで人々は採掘を繰り返し、人の力によってその形になったとか。また、金鉱脈の発見で佐渡が天領(江戸幕府の直轄地)になったことにより置かれた「佐渡奉行所」も近くにあります。佐渡で金が取れることが分かった徳川家康は、財政のために金を金判通貨として使うことを決めました。奉行所で小判まで製作したのち、陸路で小木まで運ばれ、対岸の出雲崎を渡り、北国街道、中山道を通って江戸へ持ち込まれました。

 

その他、選鉱をする上で欠かせない水の源となる「濁川」や、当時の相川都市開発で人口が急増したことによりできた多くのお寺などもありました。

 

次の説明場所へ向かう途中、相川技能伝承展示館のガラス越しに「ねまりばた」という織り機を見ました。「ねまる」とは、佐渡の方言で「座る」ことを指します。ねまりばたで織れる裂き織りは、昔、山や海で働く人の仕事着として支えました。

 

<北沢浮遊選鉱場の説明を受ける様子>

 

 

 

2.明治以降の佐渡鉱山

 

次は北沢浮遊選鉱場の正面に移動して、佐渡鉱山について詳しく教えていただきました。

 

明治2年(1869年)に官営化され、西洋人の技術者によって機械化と近代化が図られたのち、明治22年(1889年)からは佐渡鉱山は皇室財産になりました。その後、明治29年(1896年)、当時の三菱合資会社に払い下げが行われ、より開発が進んでいきました。特に、昭和12年(1937年)以降、大増産計画によって大規模な設備投資がされ、選鉱場が稼働し始めました。鉱石には金含有量が、1トンあたり平均で5グラム。3グラム採取できれば、採算が合うようでした。当時の最先端技術により、昭和15年(1940年)ころが一番活発に稼働していたときで、鉱石を1ヶ月で平均5万トンを処理していました。当時は東洋一の選鉱場と謳われていましたが、昭和18年(1943年)には国策により銅鉱浮選のみに変更されています。

 

佐渡鉱山では金の他にも銀や銅の採取も可能であったため、金から銅を中心とする体制に変わりました。かつて他の鉱山で銅の浮遊選鉱が行われていたため、体制の変更がとても難しいということはありませんでした。

 

しかし、終戦後は戦時中の補助金が廃止されたことから操業が困難となり、昭和28年(1953年)に大縮小を行いました。その後も操業を続けていましたが、平成元年(1989年)、資源枯渇の影響で作業中断の判断がなされ、現在は休山となっています。佐渡鉱山は400年の歴史の中で、金78トン、銀2330トン、銅5400トンの採取をもって幕を閉じました。

 

<大きな写真を使って説明をする本間さん>

 

佐渡鉱山の説明中、本間さんは当時の色々な写真を見せながら丁寧に教えてくれました。大勢の人がより見やすくなるよう、ガイドブックの写真を拡大して用意している点がこだわりだと言います。さらに、外国人観光客にも分かりやすいよう、時代の説明では和暦ではなく西暦を使う点もこだわりだと聞きました。そんな本間さんの優しさとプロ意識に私たちは感銘を受けました。

 

本間さんから見せてもらった写真の中で、当時まだ稼働していた頃の北沢浮遊選鉱場の写真がありました。驚いたのは、当時の選鉱場には屋根があったということです。昭和28年の大縮小の過程で屋根がなくなったと考えられているらしく、学生の頃「危ないから近づな」と言われていたようでした…。

 

 

 

3.北沢浮遊選鉱場の全盛期を支えた周辺の施設

 

<スタジアムのような形のシックナー>

 

北沢浮遊選鉱場の正面には、直径50mの巨大な「シックナー」があります。シックナーは泥状の金銀を含んだ鉱石から水と泥を分離し水を再利用する装置のことを言います。かつて北沢浮遊選鉱場には大小のシックナーがいくつか存在していました。

 

選鉱場の真横には「北沢火力発電所」があります。イギリス式のレンガの積み方(縦横積み)で造られていて、工場への電力を供給するために建設されました。

 

<レンガ造りの発電所>

 

 

 

4.工作・工場群

 

濁川を挟んだ北沢浮遊選鉱場の対岸には「北沢地区工作工場群」が存在していました。鉱石は硬いため、歯車を始めとする、佐渡鉱山の各施設で使用される機械部品は大きなダメージを受けることが多々ありました。そのため、この工場群ではそれらの機械部品類の製造、修理を行っていたとか。

 

また、鉱山の中はとても暗く作業が困難であったため、この工場群ではアセチレン灯(カンテラ)が製造されていて、全国の鉱山にも製造販売していました。ここには製缶工場、鋳造工場、仕上工場などがありましたが、これらに加え、機械製作場や鍛冶場、分析所もありました。しかし、この工場群も昭和28年の大縮小を機に、数多くの施設が撤去されました。

 

<北沢地区工作工場群跡地>

 

現在、北沢浮遊選鉱場の場所は広場となっていて、この広場は、2022年からランタンフェスティバルの会場として使用されています。ランタンフェスティバルについても取材をしてきたので、次回の掲載で!

 

 

相川ふれあいガイドの本間満さん「たすいち」

「こいっちゃ」

こいっちゃは「きてください・きなせや」ということです。400年の歴史を限られた時間でカイドし見て感じて共有化してもらう、再来島していただきたいという意味が込められています。

本間さん、短い時間の中でたくさんのお話をありがとうございました。ぜひまた佐渡に行かせていただきます!今度は日帰りではなくゆっくりと!!

 

第二弾は相川のまちづくりに携わる地域おこし協力隊の伊藤幹太さんと相川車座の原田光さんにお話を伺いました。お楽しみに!!

 

 

 

 

■北沢浮遊選鉱場跡

住所:〒952-1539 新潟県佐渡市 相川北沢町 3-2

交通案内:両津港から車で約 50 分

駐車場:乗用車:30台、大型バス:3台

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