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2024.03.08

小森はるかさん①ドキュメンタリーと日常と

osushi
地震等の災害に見舞われることが多い日本。今後震災が起きた時のため、私たちが未来を考えるために、被災地の様子を記録することは重要な意味を持ちます。
全国各地で被災者のありのままの日常を、ドキュメンタリー映画というかたちで記録し、様々な場所で伝える小森はるかさんにお話をお伺いしました。

 

──ご経歴

35歳

出身は静岡県、2年ほど前に新潟に移住。

東京芸術大学先端芸術表現科東京藝術大学大学院美術研究科を修了。

大学院入学前に東日本大震災が起き、大学院を休学して東北でボランティア活動を始める。岩手県陸前高田市に3年間住み、そこでドキュメンタリー映画を製作。

現在はドキュメンタリー映画を中心とする映像制作し、大学時代の友人であり、文章の作家である瀬尾夏美さんとユニットで活動をしている。全国の美術館で展覧会、ワークショップを行い、様々な人と交流をしながら作品を展示・上映を行っている。

 

 

──映像作家になったきっかけは?

 

小森さん:大学生の時には、映画を作って、監督業を職業にして食べていこう!みたいな強い意志があったわけではなかったです。「とりあえず大学院に行くか!」みたいな感じで進学しました。震災をきっかけに東北に行きましたが、その当時はドキュメンタリーも全然勉強していなかったんです。どうやって見たこと・聞いたことを伝えようか考えたときに、「その場所やそこで暮らす人々の姿を記録し、その場にいない人にも届けたい」って思ったんです。次第にやりたいことをやっていくうちに、多くの人に「作品」という形で届いていきました。

 

『空に聞く』©︎Komori Haruka

 

 

──どうして新潟に移住されたのですか?

 

小森さん:2年ほど前に新潟に移住してきました。その前は陸前高田近郊に住んでいました。作品を制作する中で

日常生活で仲良くなるといろんな話を聞かせてもらって、“被災した人”ではなく町の一員として一緒に生活をし話すことが多くなりました。しかしそこで、カメラを向けるとその人を傷つけてしまうのではないか、“被災した人”という目で見てしまうのではないか、と迷うようになりました。

 

そんな時に『阿賀に生きる』という30年前に新潟でうまれたドキュメンタリー映画をみて、すごく感銘を受けました。

新潟水俣病の被害を受けた人々を映した作品なのですが、その人たちのことをかわいそうな患者像として映しているのではないんです。むしろ生きていく豊かさに驚かされるような、日常の部分を丁寧に撮られた作品で、日常が見えてくるからこそ、被害の本当につらい部分が浮かび上がり、感じられるんです。でも、映画を見ているときは楽しくて見入ってしまいます。

 

東日本大震災も痛ましい出来事でありますけど、そういう風に被災地で暮らしている人の様子や思いを伝えられるんだなってすごく勇気づけられて、陸前高田で作品制作を始められました。私の背中を押してくれた映画の制作に携わった方々の思いを聞いてみたいと思って、陸前高田から阿賀の方に通うようになりました。それがもう今から10年前のことになるんですが。自分が陸前高田で行き詰ったときに、新潟に来て阿賀野川の風景を見てリフレッシュしたり、いろんな話をきいて励ましてもらったりしていました。

「阿賀に生きる」の上映後も患者さんの生活は続いていているんですよね。そういうことにも目を向けたいと思って新潟に引っ越してきました。

 

 

──なるほど!新潟に来て好きになったところはありますか?

 

小森さん:風景がすごく好きです!平野や田んぼがあって、遠くに高い山、空がすごく広いのが良いと思います。天候が悪いのはびっくりしましたが(笑)。毎日風景を見て癒されています。あと、食べ物がおいしいです。いろんな特産品がありますよね。果物や野菜でもここでしか食べられないものがたくさんあって、種類も多くて楽しんでいます。

 

それと、人が温かいですね。地方は文化的な取り組みをされている方がすごく多い。新潟に来てからそういう人たちとの出会いが増えました。映画を専門にしていなくても映画の上映会をしている方、いろんな分野の人たちが文化的な交流を通じて繋がっていると思います。

 

(新潟で映画作成をする小森さん

大雪の日でも制作に励んでいます……!)

 

 

──ユニットを組んだきっかけを教えてください

小森さん:きっかけは東日本大震災ですね。瀬尾さんの家の風呂が地震で壊れてしまったんです。元々同じ大学の友達で、私の家と近かったのでお風呂を借りに来たりしていました。

非常事態がずっと続いている中で、家で瀬尾さんと一緒にニュース見ていました。その時になんかできることないかなと話し合っていました。ボランティアが迷惑だという情報が流れていたりしていましたが、それでも自分たちにもできることがないかと探していました。自分たちの大学が茨城にあり、茨城の被災した地域へ一緒にボランティアにいきました。

 

 

──その前から一緒に作品作りはしていたのですか?

小森さん:四年間大学で同級生でしたが、一緒に作品を作ろうという感じではなかったですね。

 

ボランティア活動中の小森さん

 

 

──学生の間、映像作品は作っていましたか?

小森さん:美大は、私に撮っては「学ぶ」というか、ほとんど「作品を作る場所」でした。私の学科は自由に選べて、絵を描く人、踊る人、写真を撮る人と、みんなバラバラでしたね。基本みんなあまり学校にいなくて、外に出て活動している人も多かったです。

私は当時、映像制作をやりたいと思っていたのですが、一人だと映像を作れないため、専門学校にも通っていました。映画美学校ではフィクション映画を作る勉強をしていて、脚本製作や俳優さんへの演出などを学んでいました。

 

 

―現在はドキュメンタリー映画を多く作成していますが学生時代もそうだったのですか?

 

小森さん:もともと、学部の頃はフィクション映画を作っていました。なので、なにか物語性のあるものを作りたかったんです。

 

いくつか作品を作っていく中で、自分が監督に向いていないということに気づいたんです。物語を作りこんでいっても真実味をなかなか増していかなくて、役者さんが演じても嘘っぽい感じになってしまう。どうやったら人の心を嘘のもので揺さぶられるのかと悩んでいた際に、稽古中や、ロケ地を探している時の映像の方が面白いと、ふと思ったんです。そこから本番以外の時間を撮影しても面白いんじゃないのかなと思いはじめて、稽古をしているときにカメラを回してみたり、2、3時間俳優さんの自由に演じてもらう様子を撮影してみたりして、ドキュメンタリーに近いものを実験的に試していました。その時の関心が今、ドキュメンタリー映画を作っていく中でも結びついている部分はあるかなと思っています。

 

 

 

今回は小森はるかさんに映像作家になったきっかけや、現在に至るまでの取り組みを中心にお伺いしました。

次回は、小森さんのドキュメンタリー映画や上映会への想いを中心にお届けします!

 

 

【おしらせ】

震災のリアルを追い、伝え続けている小森さんが監督した映画『ラジオ下神白』の上映会が新潟県長岡市でも行われます。東日本大震災、東京電力福島第一原子力発電所事故によって避難してきた人々が暮らす福島県復興公営住宅・下神白団地。そこで生まれたプロジェクト「ラジオ下神白」の活動や「伴奏型支援バンド」など、団地で繰り広げられた一風変わった被災地支援を追いかけた作品です。

 

■新潟県内での上映スケジュール

①2024年3月9日(土)14:00~

会場 ミライエ長岡4階ミライエステップ

 

②2024年3月24日(日)10:20~ ※小森はるかさん登壇なし

『ラジオ下神白』©︎Komori Haruka

会場 アオーレ長岡市民交流ホールA

 

詳しくは下記URLから!

https://nkyod.org/event-list/328059

 

『ラジオ下神白』©︎Komori Haruka

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