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江戸や明治を経て、現代まで続く村上の食文化ですが、驚くべきことに、村上には他に例を見ない100種類以上の鮭料理が存在しているのです!これは、鮭の漁獲量が日本一の北海道でさえ、このような伝統的な鮭料理は存在しません。焼き鮭、鮭のムニエル、鮭の照り焼き…。新潟県内では、雑煮に鮭を入れることでも有名ですね。しかしそれでも、100種類の鮭料理といわれたところで、10種類も思いつかない人の方が多いのではないでしょうか?そんな脅威の鮭文化を誇る村上では、一般的に捨てられる部位である内臓や中骨、頭、皮、えら、ヒレまで…全てを生かす。無駄なく活用した鮭料理が数多く存在することが大きな特徴なのです。
(普通は捨てられる部位を使った鮭珍味の数々 左:白子寒風干し 右:皮・ひれせんべい)
(吉川真嗣さん「じゃあ101番目はないのかって言ったら、そんなことはないと思う。」村上の鮭料理は無限!)
例えば、鮭の白子は味噌と粕(かす)に漬けて、寒風干しにすると美味しい珍味になります。塩引き鮭の皮は好んで食べられますし、普通は捨ててしまうヒレも油でカリッと揚げて食べます。皮には皮の味があり、ヒレにはまた違うヒレの味があるとのこと。ぜひ全ての部位を食べ比べてみたいですね。1年がかりで吊るして熟成させて作る「さかびたし」という鮭も人気で、これはお酒をかけて食べることから「鮭の酒びたし」と言います。これらの伝統的な鮭料理は地域の人々の鮭を大切に思う気持ちと工夫によって生まれ、鮭を最大限に生かした料理として今でも受け継がれています。これほどまでに鮭に関する深い知識と技術を持つ地域は村上の他にあるのでしょうか?これまで100種類を超える鮭料理が、豊かな村上の食文化を形成してきたのです。
村上の鮭料理には、村上地域独特の気候風土が深く影響しています。特に、11月の半ば過ぎに吹く北西からの冷たい風を利用した熟成方法が、村上の鮭料理の味わいを際立たせます。
(店舗で販売する「鮭の塩引き」)
(塩加減が絶妙で何もかけなくてもごはんが進む、一度は食べたほうがいい一品)
村上の代表的な鮭料理として「塩引き鮭」があります。新潟県民であれば、一度は口にしたことがあるのではないでしょうか。この塩引き鮭は11月中旬から吹いてくる北西の冷たい風に当てて3週間から4週間干すことで作られているようですが、ただ乾燥させるだけではなく、村上独特の気候風土の中で熟成することで、他の地域とは異なる特別な味わいが生まれるのだそうです。つまり、村上の環境なくして村上の鮭は作られないということですね。
さらに、村上に「鮭言葉」となる言葉が存在することを知っていましたか?この地域特有の言葉からは、村上の鮭文化の深さが伺えます。例えば、一般的に「イクラ」として知られる鮭の卵は、村上では「はらこ」と呼ばれ、鮭の内臓は「なわた」、心臓は「どんびこ」、そして、鮭自体は「いよぼや」という言葉で表されます。
「いよぼや」は、鮭を指す言葉で、この中の「いよ」は、中国語の「魚」の古い発音に由来しており、村上の人々にとって「鮭こそ真の魚」という価値観を示しています。「ぼや」は最高の魚を示す敬称で、この二つを合わせた「いよぼや」は村上における鮭の最高評価を表しています。鮭を評価する言葉があるとは、まさに鮭が村上地域に根差した魚であることが分かります。
(ちょうど村上では「第23回 城下町村上 町屋の屏風まつり」をやっていて、日本でも3か所しかないといわれる屏風祭りの1つを見ることができます)
村上の鮭文化は、ただ魚を食べる文化ではありません。村上の鮭文化には鮭への深い感謝と敬意を持ちながら、その恵みを大切にしてきた歴史があります。
時は江戸時代、鮭が豊漁だった村上は、ある時期突然その鮭が急激に減少しました。そこに、この危機を乗り越えるべく青砥部平治(あおとぶへいじ)という侍が現れます。彼は長い観察を通じ、鮭の生態についての独自の洞察を持っていました。彼は鮭が川で生まれ、海で育ち、再びその川に戻るという回帰性を持っていることを直感し、殿様に鮭を一定期間保護することを提案しました。更にその後、三面川に鮭の産卵に適した分流を作るという大事業も提案しました。この提案は当時莫大な労力とお金を要するものであり、もし失敗すれば彼の命すらも危険だったでしょう。しかし、彼はそのリスクを受け入れて自らその事業を推進したのです。
そして数年後、彼の努力が実り、以前よりも多くの鮭が村上に戻ってきました。この奇跡のような出来事をきっかけに、村上の人々は鮭への感謝の心をとても強くしました。鮭は天からの贈り物として尊ばれ、一尾一尾今まで以上に大切に扱われるようになりました。この感謝の心が、村上の鮭料理の基盤となり、多種多様な料理が生まれてきたのです。
村上の鮭料理は代々受け継がれてきた伝統であるにも関わらず、戦後の変革期には「古臭い」と言われ忘れられようとしていました。村上の鮭料理の価値を認識していた吉川さんの父で6年前に亡くなった哲鮭(てっしょう)さんが、村上の鮭の食文化は絶対に絶やしてはならない。これを残して伝えていかなければと、当時の風潮や金融機関の反対を押し切り、村上で初めて鮭料理を製品化しました。彼の情熱が村上の人を目覚めさせ、大きな流れを作っていきました。そして鮭文化は再び注目を集め、全国的に村上の鮭料理が称賛されるようになったのです。
(哲鮭さんが守ってきた「鮭の町 村上」の町並み)
鮭料理が人に見向きもされない時代から村上の鮭文化の素晴らしさを訴え続け、ここまで引っ張ってきたのが哲鮭さんでした。1人の努力から始まり、やがて大勢の人の力が結集し実りを見せ、村上に「鮭の町 村上」という大きな光を当てたのです。
「村上の鮭を思う志と情熱が大きな変化をもたらす原動力となる」。哲鮭さんが活動から得た教訓だそうです。にいがた鮭プロジェクトもこれに習い活動していきたいですね!
「千年鮭きっかわ」の歴史深いストーリーを紹介しました。さすが、先祖代々受け継がれてきたものがありますね。次回は吉川さんが尽力してきた村上のまちづくりと今後の展望について迫ります。お楽しみに!