たべる
FOOD
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その名前の由来は千年前の平安時代から、村上に鮭の食文化があったことにあります。
平安時代の書物「延喜式」には、京の都の朝廷に租税として鮭の加工品が5品目も納められていたことが残っています。脈々と受け継がれてきた結果、今でも100種類もの鮭料理が伝えられています。そのような町は、世界中どこを探しても他にはありません。特殊な食文化を持った町が「村上」なのです。
ではなぜ村上には100種類もの鮭料理があり、食文化が発展したのでしょうか。それは、鮭を大切に思う心にあると思います。歴史の中でさまざまな出来事がおこり、その中で他の地域にはないような、深い思いが村上では芽生えていったのです。
(今回お話をうかがった吉川真嗣さん)
鮭は鱗(うろこ)を取りません。取るとうまく塩が引けません。
鱗を逆なでるように塩を引き、塩が中に入る。特殊な料理は別ですが、鮭の仲間以外はみんな鱗を取ります。包丁を入れたとき、普通の魚はバリバリと音がしますが、鮭はすんなりと切れます。鱗が気にならないばかりか、その鱗があるからこそ皮の味が一層美味しくなります。
塩引き鮭は、鱗に逆なでて、感謝の気持ちで、塩を引きます。丁寧に手で刷り込んで鮭に必要な塩を必要なだけ刷り込んでいきます。
これを「塩をひく」と言います。「ひく」というのは、鮭本来の持っているうま味を、塩を添えることで最大限に引き出すことです。
昔の人は「眉を引く」、「紅を引く」と奥ゆかしい表現をします。それをすることによって、そのものを一層いい形に引き立てるということであり、それが村上の塩引きの「引く」という意味です。
(鱗を取らないことで生み出される美味しさ)
塩をして、漬けて、干す。材料は鮭と塩のみ。
11月半ば村上の北西の冷たい風が吹き、気温が10度を割り込んでくると、仕込みが始まります。
塩を引いた後、4~5日漬けてから丁寧に水洗いして、そして干す。
3~4週間干す間に鮭が乾きながら身がしまることで、うま味も凝縮される。
しかし村上の塩引き鮭の最大の特徴は、村上の風に当て吊るすことで、鮭が持つ酵素の働きで、たんぱく質をアミノ酸のうま味に作り替え、熟成することにあります。
体に必要不可欠の栄養でありながら、私たちの体の中では作れない必須アミノ酸という栄養素があります。村上の塩引き鮭は、この必須アミノ酸全てを含んでいます。
つまり、新巻鮭(あらまきざけ)や塩鮭と違い、ただの塩の味の鮭ではなく、特別なうま味が村上の塩引きにはあるのです。
ごちそうを作って食べる大晦日の晩、村上では食卓にメインの料理としてのるのが塩引き鮭と決まっています。塩引き鮭の「いちのひれ」というカマ(胸ひれ)の部位は村上では特別扱いです。まず神様にお供えして、そのあとそこを食べるのは一家の主人と決まっています。生まれてから一生を終えるまで、たとえ海の中で体が止まっていても、絶えず「いちのひら」は動きながら休むことなく働き続けています。一生を通して休むことなく動き続ける不思議な生命力がそこに宿っており、その生命力を一家の大黒柱である主人にあやかってもらいたい、という温かい気持ちが込められているのです。
(塩引き鮭で仕込む飯寿司作り)
(正月に食べる飯寿司。昔ながらの村上のごちそうです)
このように、村上の塩引き鮭は大晦日に欠かせないハレの日の料理で、村上の人にとって特別なものです。その塩引き鮭でごちそうを食べた年明け、お正月に出てくるのが、あらかじめ作っておいた塩引き鮭で仕込んだ「飯寿司(いずし)」という「鮭のなれ寿司」です。
ご飯と麹(こうじ)を合わせたものを床に敷き、大根と人参の薄く短冊に切ったものを散らして、その上に塩引き鮭のさまざまな部位や切り身を散らしていきます。麹とご飯の乳酸発酵によって甘酸っぱくなります。木の桶の中、笹でくるみ、重しをして1カ月寝かせて作ることで完成する昔ながらのなれ寿司です。
「飯寿司を食べないとお正月という気分にはなれない。塩引き鮭も食べないと新年を迎えられない」と語ります。
(天井の梁から吊り下がっている鮭、圧巻の景色です)
「村上を救ってくれた大切な鮭に対して、切腹させない」
そう吉川さんは語ります。
おなかの一部を残すことで、この鮭への感謝の気持ちを形にして示しています。江戸時代から続く村上ならではの作り方で、城下町であっても他の地域ではこのような面倒なことはされていません。これは、時代の中で鮭に助けられ、そのために鮭のことを特別に思う気持ちがあったからこそで、それが今も大切にそれが受け継がれています。